#16

 

仕事と作業は違う。

 

"作業"もその目的と意味をよく考えれば"仕事"になるんだ

 

 

楽天の先輩から

『入社後も自分を忘れるな』

『言い訳だけは絶対にするな』

という言葉をいただきました。仕事では理不尽なこともあります。

ときには、言い訳をしたくなりますが、先輩の言葉を思い出して、

『言い訳はダメ』と自分に言い聞かせています

 

 

 

#15

 

 

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                                 by 岡本仁

 

 

現代音楽家ヤン富田さんが

必然性のある偶然」という言葉をよく使われていて。

 

鍛練を続けている人にだけ訪れる偶然があるという意味なんです。

 

ぼくの場合、なにかを鍛錬しているわけではありませんが、

旅先ではとにかく歩くので、小さな偶然の瞬間に立ち合う機会が多い気がします。




先日、札幌市の大通公園まで、

彫刻家イサムノグチによる『ブラック・スライド・マントラ

というすべり台の作品を見に行ったんですが、

まだ雪が残っていて近づけなかったんです。

でも、次の日にもう一度しつこく見に行ってみたら、

作業着のおじさんが5、6人いて、ブーンと大きな音のする機械で除雪を始めた。

「へえ! こうやってやるんだ!」と写真を撮りまくったのですが、

突然こういう珍しい瞬間に立ち会えるのは旅の魅力だなと実感しました。

 

 

 

どこに行っても「散歩をする」

          という気持ちで平常心を保つ。

 

 

「平常心を失うな」かな。

非日常的な体験だからこそ、それを平常心で捉え直すことも大事。

あと、1回の旅でたくさんの成果を求めすぎないのも大事ですね。

旅は1回で済ませるなって思っています。


旅に行ったとしても、普段の生活と同じか、それ以上のスピードで動いていたら、

その場所の本当の魅力は見えず、どこも同じに見えてしまう。

だけど、欲張らずに平常心で過ごしていると、

旅先の街の普段のテンポがわかってくる。

そのテンポが自分と合った場所に何度も行きたくなるんだと思います。

そんな感じで、自分をマイルドに外に連れ出してくれるものが

旅なのかなとも思います。

 

 

 

 

 

#14

 

じぶんが誠実かどうか

             by ほぼ日刊糸井新聞 やさしく、つよく、おもしろく。

 

 

じぶんが正しいかどうかについては、

じぶんだけでは決められることはなさそうだが、

じぶんが誠実かどうかについては、

じぶんだけでほんとうの答えがわかるはずだと思う。

 

『忘れてきた花束。』P.41より

 

 

 

#13

 

 

旅での経験がいつか自分の糧になる

旅は人生を豊かにする「種まき」。

                                                                                                   by 小山薫堂

 

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1か月間の休暇ですからね、いろいろと考えました。

断食道場に通ってダイエットしようとか、サーフィンやゴルフを極めようとか。

そのなかでも「旅」を選んだのは、セレンディピティー、

つまり「偶然の出会い」の種を自分に蒔きたいと考えたからです。

 
旅には、予期せぬ誰かとの出会いや体験がある。

その経験の種は、すぐには芽を出さないかもしれないけど、

どこか記憶の深い部分に残り、今後の人生のなかできっと発芽するんじゃないか。

そのための種まきを、この時期にしておきたかったんです。

 

 

訪れた順に並べると、仙台にはじまり、パリ、ストックホルム、いったん帰国して、仙台の歯医者へ(笑)。

その後、和歌山県から熊野古道を歩き、ニューヨーク、イスタンブールヴェネツィア、ツェルマット、プラハ、ふたたびストックホルム

終盤はバルト海を船でめぐって、サンクトペテルブルクから帰国しました。
 
行き先は「行ってみたい都市」と「好きな都市」で選びました。

イスタンブールやツェルマット、プラハは行きたかった都市です。

でも、どの場所も滞在は1〜3泊に収めました。

 

 

移動の時間は、自分と向き合える時間だと思います。

とくに飛行機の移動は、世界を俯瞰で見られる。

悩みがあるときも、世界には人の数だけ悩みがあるんだろうなと考えると、

すごくラクになる。

等身大の自分から少しズラして、目先のことを相対化できる。

だから、移動が好きなのだと思います。

 

 

やったことがないことをしたかったんです。

それこそ最初は1か月でお遍路の旅をしようかとも考えたのですが、

四国のお坊さんから「夏のお遍路はかなりキツいよ」と聞いたこともあり、

同じような修行の効果を2泊3日で得られる熊野古道を選びました(笑)。

 


普段は運動をしないので、じっくり身体について考える余裕なんてなかったのですが、

「歩く」という漢字は「少し止まる」と書くなとか、

「休む」という漢字は「人が木になる」と書くなとか、

歩いているといつもは考えないことが頭のなかに浮かびました。

「歩き続けること=止まってはいけない」ではないと思うんです。

むしろ、「歩くためにときどき止まれ」。

そうした含意を、「歩」の字からは感じます。

 

何かを継続しようと思ったら、たまには自分を見つめ直す時間を持つこと

も重要だと思うんですね。

 

 

 

お金は使い方によって生きも死にもする。

騙されて失ったお金は死んだも同然ですが、

生きたお金になるなら、何も惜しくないなと。

 

当日の日記を振り返ると、そのあとに行ったレストランで考えたこととして、

「ミートボールとサーモンマリネ、ビールと赤ワイン。

あの無意味な男どもに5万円も払ったことを思うと、

ここでの120ユーロなんて生きたお金そのものだ。

今日の事件によって、お金の価値をあらためて知った。

ありがとう、ガムラスタンの悪党どもよ」

とも記されています(笑)。

 

 

最後にはきちんと、「オチ」と「気づき」があるのが小山さんらしいですね。

 

 

 

こんな悔しさを普段感じることはないし、旅の途上だからこそ、

その経験からお金の価値という部分まで思考が行ったんだと思います。

この旅を通して、総じてぼくは少年に戻った気がしました。

つまり、若いころのように好奇心旺盛になったということ。
 
学生時代は、旅先での空いた1時間も惜しかったんです。

当時訪れたニューヨークでは、わざわざイタリアの食材を扱う店に

チーズを買いに行くなどして細かく予定を埋めていました。

でも、歳を重ねると、そうしたことが面倒臭くなるんですよね。

この1か月間の長旅で何かが劇的に変わったわけではないのですが、

将来ジワジワ効いてくるはずの何かは得られたように感じました。

 

 

 

旅の見返りは期待しない」「神様の予測を裏切る」。小山薫堂流、旅の心得

 

 

劇的な変化はない、というのはリアルですね。

たしかに長い旅が終わっても、あまり日常は変わらなかったりする。


1か月間の旅から数年が経ちますが、当時の経験が仕事に活きたと感じることはありましたか?

 


じつは、まだないんです。

旅の経験からはつい何らかの芽吹きを期待するけど、

それをマストにしてはいけない気もするんですね。

そもそも何をもって「得た」とできるのかはすぐにはわかりませんし、

 

「何も得られなかった」と感じたとしても、

記憶があるかぎりは、あらゆる可能性が「種」としてこれからの人生に残るはず。

 

そうしたものこそが、まだ息吹いてはいなくとも、

血となり肉となっていくのだと思います。

 

 

ぼくはよく、

「神さまにフェイントをかけるような行為が、人生を面白くするきっかけになる」

と言っているんです。

神さまが予測するような予定調和を裏切った先にこそ本当の「偶然」があり、

面白い物語が待っている。

その意味で、計画しすぎない旅はオススメですよ。

 

 

綿密に計画を練って、行きたいところだけをめぐる旅もいいけど、

本当に偶然の連鎖によって何かと出会う旅は、より良いと思う。

たとえば、スマホで意図した曲を聴く心地良さと、

車の運転中にたまたまラジオから流れてきた曲と風景が合ったときの心地良さは、

違いますよね。


予期せぬものに会ったときの心地良さが多い旅が、良い旅だと思います。

 

 

 

旅先の楽しみは偶然の出会いから広がる「物語」にある

 

最近ある雑誌で、3日間好きな場所に行ける企画に呼んでもらったんです。

それで、長崎県に行って、

「ちゃんぽんと皿うどんのどちらがいいか、自分のなかで決める旅」

という企画を思いついた。

編集長と2人で長崎に行き、食べまくり、聞きまくりの旅をしたのですが、

面白かったです。 

その旅をするまで知らなかったのですが、

ちゃんぽんは長崎県民にとって、「ハレ」と「ケ」のうち、ケの食事なんです。

つまり、お母さんが普段からつくってくれるような食事。

一方で皿うどんは、ハレの場で親戚が集まったときなんかに注文する食事。

この偶然の旅を通して、多くの長崎の県民性がわかって、

普通に観光するよりも圧倒的に得るものがありました。